大相撲談義・偉人の名句名言集・ポエム集は曜日を指定せず、その時の状況に合わせて随時、AM6:00には投稿しています。
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カズばあちゃんの激動の昭和アワー!!第三部

神秘な体験談

はじめに

皆さん、こんにちは。

カズばあちゃんの激動の昭和アワー!!第三部、いよいよ最終回の始まりです。

これからは30代、40代の子育て、そして企業戦士と呼ばれる団塊の世代に入っていきます。

まさに激動の昭和のパワー、全開といったところです。

家事と仕事の両立が主流

仕事に励む女性達

私の30代の頃は子育てが主流でしたが、だからと言って、会社を辞めるという考えは全く無くほとんどの女性が家事と仕事を両立していました。

近年言われているようなご主人の家事協力等というものは勿論無く、ご主人達のほうも残業に明け暮れ、疲れ果てていた。

それでも主婦達は粘り強く、子供を保育所や親達に預けて、仕事に励んだ。

私が携わった仕事はいくつかあるけれど、パートタイマ―と正社員の時代に分かれます。正社員の時は何年も長く在籍して、それなりのエピソードも沢山ありました。

宣伝部での仕事

人生の出逢い

デパートや量販店(現在のショッピングモールのようなもの)での宣伝部や販売促進課での仕事の時は様々な経験を通して、とても貴重な財産となりました。

モデルを呼んでチラシの撮影や催事企画(例えば昔の子供向け番組「ゴレンジャー」や歌合戦のような家族向け催し物の手配、ミニコンサートの開催、合い間にポップを書いたり各売り場を回り、ディスプレイの点検、入れ替え等、忙しい毎日でした。

でも私の性分に合っていて、楽しい日々でした。

そして、ここで私の大切な人生の出逢いがあったのです。

何でもありのバブル期時代

団塊の世代

高度経済成長期時代(1947年~1949年)】
・文化的、思想的な動きが盛ん
・学生運動が活発化

第一次ベビーブームの世代

団塊の世代

(当時、経済企画庁の官僚だった堺屋太一さんの小説に出てきた言葉)

バブル期を経験した時代でもあった
※現在活躍されている小説家の「北方謙三さん」もこの時代の方です。

私が40代の時が団塊の世代の底力!「企業戦士」と呼ばれる由縁。

特に営業会社の場合、大半の男性はただひたすら仕事の事しか頭になく、特に北は北海道から南は沖縄まで全国に支店がある場合、全地域の毎日の成績が速報でFAXで流れ、1位~10位までが全社員の前で発表され、その場で報奨金が手渡され、拍手喝采!それが毎週行われ、まるで儀式のようだった。

表彰された社員は”招待旅行”の”ご褒美”付き!という具合です。
旅行先のホテルでのパーティーではゲームと称して札束が乱舞!早い者勝ち!

私は毎回これらに参加できる成績だったけれどその情景を見ると、何とも後味の悪い気分だった。後になって考えてみれば、まさにバブル期の”何でもありの時代”でしたね。

残業に明け暮れるデザインの日々

やりがいは感じていたものの・・・

さぁ~、これからがまた私の本題に入って行きます。

この時代の特徴は本社から各地方に支店や営業所がたくさん設置され、伸びる企業もあれば業績不振で、どんどん閉鎖される会社も多かった。


私も何度か転職する羽目になり、落ち着かない時期もありました。

私が40代に入った頃、商業デザイン関係の仕事をして居り、いわゆる”納期もの”と言って、いつまでに仕上げなければならないという期限付きのもの。とてもきつい仕事です。


その為、夜中まで残業する事もあり、家事と仕事の両立はとても大変でした。それでもやりがいを感じる充実した毎日でした。

大きな交差点での大事故

自転車通勤

そして夏の終わりの頃、一時間だけ残業をして、外に出ると辺りは明るく、夕焼けがキレイだった。職場が自宅から近いので、いつも自転車通勤をしていました。

広く大きな交差点で、車はかなりのスピードで走り込んでくる。通い慣れた道なので、私はいつも通り、ゆっくり走り出す。

昔よくある信号システムで私が直進、車が右折、出会い頭にぶつかる形になってしまう。

今は改良されて、そういう事はほとんど無くなったが、昔はそのパターンの事故が多かった。

ショック状態のまま這って帰ろうとする私

生死を分けたボンネット

私が乗った自転車が車にぶつかった瞬間、まるでテレビドラマにあるようなポーンと高く空中に舞い上がり、次に車のボンネットの上に落ち、そこから地面に勢いよく転げ落ちた。

私はショック状態で頭の中が黄色やオレンジ、赤や緑でいっぱいになり、目が開かず、何も見えない。

そんな状態にもかかわらず、私の脳裏に浮かんだのは私は「こんな所で事故に遭っている場合じゃない!家族が私の帰りを待っている!早く帰らなければ・・・」と意識が朦朧もうろうとしながらも、方向も何もかも見えないまま、這って帰ろうとしていた。

運転をしていた若葉マークの女性は泣き出してしまい、私を助けるどころではなく、周りから沢山の人が集まってきて「あなたは動いちゃダメ!!」と誰かが叫んでいるのが、遠くで聞こえる。

とにかく信号の真中に居ては危ないので、皆で私を路肩まで運んでくれた。

「あなたの家は、名前は、電話番号は」・・・。


皆から矢継ぎ早に聞かれたが、私はショック状態で何も答えられなかった。

そして救急車が到着!!もうその頃には私の意識は無かった。病院に着くまでの間の事は何も思い出せない。

意識が朦朧とする中、数々の検査

即死を免れた命への決意

脳検査の為のMRI、断層撮影、レントゲン等の精密検査。鎖骨にヒビが入り、左ヒザ圧迫による肉離れ、左肩脱臼、首と腰をひねって筋の断裂、額の生え際や口の中の裂傷、前歯が二本折れた。

全身打撲で体が硬直して動けない。キャスターで運ばれながら周りがザワザワと動き回っているのだけは、うっすらと感じていた。

後で、病院側から言われた事は「飛ばされてそのまま直接地面に叩き付けられていたら、おそらく即死だったのではないだろうか」という事だった。

私はその夜、病院のベットの上で、さめざめと泣いた。

そして”私はまだこの現世で成すべき事があるのかもしれない。助かったこの命をこれからは家族の為、世の中の為に何か出来る事をしよう”と決心したのです。

積極的な退院

ボランティア活動の難しさ

私はとても健康だったし、普通の人よりは治りが早かったような気がします。

入院期間を待たずして治療結果、その時の体の状態等を診てもらい、自分から積極的に退院を申し出て、体の筋力を取り戻す為に接骨院や整体等に通った。

そして日常生活に支障が無くなり、紹介された他社の会社の仕事に就いた。(さすがに事故に遭った場所には、怖くて二度と行く事は無かった)

そしてかねてより計画していたボランティア活動は大手の団体や、私個人としても幾つか経験した。

沢山の方に喜んで頂き、同時にプライドを傷つけないように手を差しのべる事の難しさも感じた。

感動できる何かをつかみ取ってほしい

ブログやTwitterでの活動

私は若い頃の事故を通して、命を授かった自身の人生を一人でも多くの方達に、何か一つでも感じ取って頂きたいと思い、晩年になってからブログやTwitterを始めたのもその為の一つでした。

皆さん、私を応援して下さったり、そして沢山のコメントを頂き、自分で励ますつもりが、私自身が皆さんに励まされ、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

若い頃から探求心旺盛で行動的だったので、おもしろい体験談や、又、原点に戻って、宇宙や科学の謎も解明したいです。

私のブログは色々なジャンルに分かれていますので是非皆さん最初のものから順番に読んで頂いて、何か一つでも感じ取ってもらえたならとても嬉しいです。

体験談、そして短歌やポエムを通して、皆さんの心に残る言葉を発信していければと思っています。

今、コロナ渦にあって、自分とそして家族を守る為に成すべき事を最優先にして、耐えて頂きたいと心から願っています。

カズばあちゃんは昔も今も変わらずに若々しく元気ですよ~。

発想を豊かにする人は人間を豊かにし、人生をも豊かにすると信じています。皆さん、また、Twitterで逢いましょうね!!